南部氏(なんぶし)は、陸奥の武家。清和源氏の河内源氏の流れをくむ。
前九年の役では清和源氏の源頼義が現在の盛岡に来歴したが、頼義の子で源義家の弟の源義光の子孫は甲斐源氏と呼ばれ、南部氏、武田氏、小笠原氏、佐竹氏などに分かれた。南部氏は南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばし、はじめは三戸(現在の青森県三戸郡三戸町)に居城を構えていたが、豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を鎮圧、九戸城を福岡城(岩手県二戸市) と改め移転した。さらに前田利家らの仲介により豊臣秀吉から閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配も認められると、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなった。
源義光の玄孫の源光行は甲斐国南部の河内地方にあたる巨摩郡南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に住み、南部氏を称したという。なお、光行の兄の源長清は巨摩郡小笠原荘に住み、小笠原氏の祖となっている。
平安時代末期の奥州合戦のころ、南部氏の初代当主である南部光行が奥州糠部(現在の青森県から岩手県にかけての地域)の地に土着したという。光行の移住は確証に乏しいが鎌倉後期には奥州における南部氏の活動が見られ、この時代から土着していた痕跡とされるものが三八・上北地方の習俗として残っている。旧正月12日に三八・上北地方で行われるえんぶりがそれである。
『奥南旧指録』によれば、承久元年(1219年)の暮れに南部光行が家族と家臣を連れて由比ヶ浜から出航し、糠部に至ったという。
また『吾妻鏡』によれば、南部光行が糠部に下向した最初の正月、大晦日を前にして正月の準備が全く揃わない事態となり、困った家臣が光行に相談したところ、光行の「ならば南部の正月は12日だ」との鶴の一声で、以後南部氏の正月は12日となり、南部氏においては領民共々正月は12日に祝うようになったとされ、世間においては「南部氏の私改め」と評判を呼び、それが正月の伝統行事とされたえんぶりへと継承された。このエピソードは当時の南部氏が、後の南部氏と違い、如何に弱小で困窮していたかを知る上でも貴重なエピソードでもある。
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南北朝時代になると、奥州鎮撫を目的とした義良親王(後の後村上天皇)を奉じた北畠顕家に従い、伊達行朝と共に南部氏も奥羽に下向する。
また、日蓮宗関係の史料によれば引き続き甲斐の河内地方に居住し続けている複数系統の南部一族はおり、南北朝期には南朝方と北朝方に分かれて争い、北朝方に属した一族はその後勢力を失い、南朝方に属した南部氏も南北朝合一に際して奥州へ移住し、河内地方には武田一族の穴山氏が入部したと考えられている。
陸奥へ移住すると陸奥北部最大の勢力を持つ一族に発展した。しかし、一族内の実力者の統制がうまくいかず、そのために内紛が頻発し、一時、衰退した。